鑑定士からみるココ・シャネル

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鑑定士からみるココ・シャネル

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『シャネル20世紀のスタイル』より出典

偉大なデザイナー、ココ・シャネル。シャネルの弱点は、一体何なのでしょうか。華やかなファッションの世界での成功とは裏腹に、不遇であったシャネルの人生。
彼女の言葉の数々は、今や名言・格言として数多く記録されていますが、批判的発言や生い立ちに関して事実と異なる発言をしているなど、伝記を書くうちにいろいろなことが明らかになりました。ここでは、その一部を紹介します。
※驚きですが、未だにシャネルについての歴史的事実が更新されています。本ブログでも真相が更新されましたら、随時修正していきます。

1.ココ・シャネルの弱点

〈批判的発言〉
「優しさに包まれてする仕事なんて、本当の仕事じゃない。怒りがあって、はじめて仕事ができるのよ」
→働かないことを美徳としていたブルジョアの世界に対して怒るシャネル。また、従業員が権利を主張してストライキを起こした際にも激しい怒りをあらわにしました。

「私なしではあなたは存在しません。(自分を)大した人間だなどと思わないように。私あってのあなたです。もし私があなたを見捨てれば、あなたはもはや存在しなくなるのですよ」
→シャネルが一目おいた服地の作り手、マリア・ケントが格下のデザイナーの注文も受けたことで発した言葉。

「あなたは私をはじめ、他の人たちに夢を与えなければいけないのよ。それがメイクもせず、ちゃんとした格好もしないのなら、お掃除でもしていなさい」
→ノーメイクでジーンズを履いてきたモデルたちを叱った言葉。

〈シャネルがついたうそ〉
・出生地
→オーヴェルニュ地方
(『ヴォーグ』の元編集長が書き下ろした『リレギュリエール』が出版されるまで、シャネルの出生地はオーヴェルニュ地方とされていた。本当はソーミュール)
※フランスのオーヴェルニュ地方は、山が多く自然に恵まれ、教会も多い地域です。ミネラルウォーターで有名な「ボルヴィック」の水源があることでも知られています。

・父親の職業
→ブドウ栽培人、ブドウ仲買人、貿易商
(本当は行商人、露天商)

・父親の所在
→アメリカ在住
(本当はフランスの町を渡り歩いている)

美しくないものを全て排除する姿勢は、まさに究極の美意識。
ついたうそからは、幼少期の苦労を秘めておきたい気持ちと父親への思いが伝わってきます。
生涯ストイックに“仕事”と向き合ったシャネル。
つらい過去を明朗に語り、中途半端なことを嫌い、筋を通す強さ。
「待つのが私の任務」と言い、休日が過ぎ仕事の時間がくるのを待っていたことも有名です。
仕事をする上での自己顕示欲が、シャネルをストイックにさせていたように思います。
それが彼女の弱点であり、強みでもあります。
では、シャネルの生涯についてひもといていきましょう!

『シャネル20世紀のスタイル』より出典

2.ココ・シャネルの生涯

2-1.幼少期からお針子時代

1883年8月19日日曜日、フランスのロワール川流域にある小さな町、ソーミュールにて生まれた一人の女の子。

その名も、Gabrielle Bonheur Chanel(ガブリエル・ボンヌール・シャネル)。

父親は不在、母親は出産直前まで働き詰めで疲労しきった状況で、予定日より早く生まれました。
二日後に行われた新生児の洗礼には、家族が一人として出席できず、付き添い人のいない赤ん坊を哀れんだ誰かが“ガブリエル”と命名したようです。
※“ガブリエル”は、「神の人」という意味です。聖書において、神の言葉を伝える天使とされています。

父アルベールは、町々を転々とする行商人で時折姿をくらますなど、家族が一つ屋根の下で暮らすような家庭環境ではありませんでした。
(アルベールは口が達者でした。うそをついて人をだましてはお金を得ることに長けていました。)

母ジャンヌは、子育ての傍ら働き病にむしばまれながらも、行方不明のアルベールを探すといった壮絶な日々を送っていました。
(ジャンヌは10代の頃はお針子を目指し修行をしていました)

兄弟構成は、1歳年上の姉と、2歳年下の弟、4歳年下の妹、6歳年下の弟。

シャネルが11歳のとき、母ジャンヌは病気により33歳で亡くなりました。
父アルベールが子どもたちを引き取ることはなく、長女と次女シャネルは孤児院へ、三女は親類へ預け、息子二人は捨て子として公共機関に引き渡されました。

姉とシャネルが送られたのは、オバジーヌにある孤児院。そこでの生活は、祈祷や散歩、裁縫を行う単調な毎日でした。
その後、孤児院の方針により、シャネル(当時18歳)は田舎町ムーランの修道女学校へと進みます。そこでは、シャネルより年下の叔母アドリエンヌが同じ寄宿舎におり、二人は意気投合します。
そして、女学校の紹介でムーランの洋品店にて二人(シャネル当時20歳)はお針子として働きます。孤児院時代に裁縫の技術を身につけていたシャネルは、顧客の要望に難なく応えることができ、信頼を勝ち取っていきます。
通常の仕事の傍ら、内緒で洋服を仕立て始め、自らの人生を楽しむようになりました。
アドリエンヌとも頻繁にカフェに通い、美しい二人は将校たちからもてはやされるようになります。(痩せ型で独特な雰囲気を放つシャネルと、ふくよかな官能美を持つアドリエンヌ。対照的な美しさだったようです)

2-2.目指した歌手の道

あるときシャネルは将校に連れられ、カフェ・コンセール(=ステージ付きのカフェ)を訪れ、新しい世界を知ります。
ステージに魅せられたシャネルは、オーディションを受け、支配人に掛け合います。
そして晴れてステージに立たせてもらえるようになり、今度はお針子の傍らで歌手の道を目指し始めます。「ココ」という愛称がついたのもこの頃で、カフェで歌っている中でニックネームとしてつけられました。
シャネルの持ち歌は二つ。
「コ・コ・リ・コ」と「トロカデロでココを見たのは誰?」という、当時パリのカフェではやった歌。
シャネルが歌うとなると、多数のファンたちが「ココ!ココ!」と叫び、コールをしたことが「ココ」という愛称がついた起源といわれています。
(『ココ・シャネルの真実』では、「彼女自身は、『父親がつけてくれた愛称』と説明した」説も紹介されています)

その後1905年の夏、シャネルは、裕福な将校である当時の愛人、エチエンヌ・バルサンの援助を受け、アドリエンヌとともにヴィシーへ移ります。
ヴィシーは鉱泉があり、富裕層が訪れる保養地でした。
そこで歌手として1シーズンだけ勝負する意気込みで頑張ります。

しかし、男性たちを引きつける魅力はありましたが、歌手として秀でた才能がなく、ダンスも踊れないシャネルは夢を諦め、水汲みとして働くことになります。
※シャネルが就いた水汲みの仕事は、猟騎兵の士官の推薦により採用された、グランド・グリーユ鉱泉の鉱水汲みでした。洞窟を行き来しては湯治客たちに水を配っていました。

シャネルの誘いでヴィシーに来たアドリエンヌは、もともと歌手を目指していたわけではないこともあり、ムーランへ帰ります。

2-3.帽子専門店の開業

1904年、両親より遺産を相続したバルサンは、競馬をいとしむ絶好の土地ロワイヤリュの領地を購入してぜいを尽くした館を手に入れます。シャネルは同行を希望し、彼の元で乗馬や狩猟を楽しみながらブルジョアのぜいたくな暮らしを経験することとなります。
ここでの暮らしから、シャネルは決まりきった従来の服装に対し、オリジナルの着こなしをしたり、それに合わせて自分で帽子を作ったりと、独特の個性を発揮します。
シャネル作の帽子は、瞬く間にバルサンの周囲の女性たちのお気に入りとなり、注文が殺到します。
女性が外出する際は帽子をかぶることが当時の文化であるさなか、シャネルはバルサンに、帽子店を開きたいと相談します。

1909年、ついにシャネルはバルサンが借りていたパリのアパルトマンで帽子店を開業します。
※アパルトマンとは、フランス語で「家具付きのアパート」の意味。
この一室は、バルサンがパリを訪れた際に使う部屋で、彼が以前の愛人と暮らしていた部屋でもあります。場所は、パリのマルゼルブ大通り。

バルサンによりヘッドハンティングされた、パリの一流帽子店「シェ・ルイーズ」の店員ルシエンヌと、二人のお針子とともに店を営みます。さらにシャネルの妹のアントワネット(当時22歳)も手伝いにきます。
そうして初めて開いた帽子店は、上流階級の夫人たちからの支持を獲得し、客足も順調に増えました。

しかし、次第にルシエンヌと意向が合わなくなってきたことや、店の場所が商売をするのに不向きであったことにより、シャネルは自己名義での再スタートを望みますが、バルサンには断られてしまいます。

そして1910年、シャネル(当時27歳)はパリのカンボン通り21番地に引っ越し、そこで帽子専門店を開きます。
その名も、「シャネル・モード」。
今度は新しい愛人アーサー・カペルの協力により、銀行から借金をして開業します。

「シャネル・モード」の帽子(1912年)/Wikipediaより

2-4.シャネルの隆盛

シャネルの事業は軌道に乗り、1913年にはドーヴィルに二号店、1915年にはビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンさせます。
※ドーヴィルは、避暑地として人気の高い町。現代では、アメリカ映画祭が開催される地としても知られています。
※ビアリッツは、スペインとの国境近くのリゾートで、温泉が有名。マリンスポーツとラグビーも盛んな町です。

ドーヴィルの店舗では、定評を得ている帽子だけでなく洋服も売り出しました。顧客となった富豪“ロッシルド夫人”による大勢の貴婦人の紹介も相まって、大流行します。

ドーヴィルの店舗前にて(右:シャネル/左:アドリエンヌ)/『シャネル20世紀のスタイル』より出典

ビアリッツの店舗では、初めてオートクチュールを手がけます。
戦時中で痩せ型の女性が増え、動きやすさを求める傾向が出てきたことは、シャネルの提案するスタイルとマッチしました。
※オートクチュールとは、高級仕立服を意味します。フランス語でオート(haute)は「高い、高級」の意。クチュール(couture)は「縫製、仕立て服」の意。1868年、イギリス人デザイナーであるシャルル・フレデリック・ウォルトによりフランス・クチュール組合が創設され、システム化されました。
具体的には、デザイナーがデザインしたものを、顧客の体に合わせて仕立てるというシステムです。1940年代に組合に所属しているメゾンは100ほどあったといわれていますが、1950年代には約60へ。1970年代の高級既製服の台頭によりさらに減り続け、1990年代には18となりました。
そして2000年以降、ほとんどのアトリエをシャネルのメゾンが買収して傘下に収め、現在に至ります。

時代は第一次世界大戦の最中ですが、ビアリッツに関してはスペインが中立国であったことで影響を受けずに運営できました。
その後1930年代初めまで好調が続き、従業員数も最大4,000人に達する大企業となります。

しかし、時代は移り変わっていきます。
1936年には労働条件の改善を求めて、従業員がストライキを起こします。
従業員たちとは和解し事業は続きますが、1939年に第二次世界大戦が勃発し、ついに香水部門とアクセサリー部門以外の事業を閉鎖します。

ストライキ中のシャネル店前で/『シャネル20世紀のスタイル』より出典

1940年、ドイツ人将校であったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラージと恋仲になり、その後ナチスの諜報機関局長のヴァルター・シェレンベルクの愛人になりました。

複数のドイツ人男性と恋愛関係をもっていたシャネルはスパイの疑いをかけられ、1944年に自由フランス軍により逮捕されます。
当時親交のあったイギリス首相チャーチルの図らいで1時間程で釈放されますが、その後約10年間、中立国スイスのローザンヌで亡命生活を送ります。

1953年、70歳になったシャネルはファッション界に舞い戻ります。
なぜ決して若くはない年齢、そしてブランクを経て再び最前線に身を投じたのでしょうか。

それは、ディオールの存在でした。
クリスチャン・ディオールは、1947年春夏コレクションにて「ニュー・ルック」と名付けた新しいスタイルを発表しました。極端に細く絞ったウエストにフレアスカートを合わせた以前の“コルセット”のシルエットを大々的に打ち出し、流行させます。
はるか昔にコルセットを取っ払い、女性の自由と快適さを打ち出したシャネルにとって、“再び女性を縛りつけた”ディオールを野放しにはできなかったのです。
抑えきれない怒りがシャネルを駆り立てました。

復帰後初のコレクションとしてまずは、好きな数字「5」にちなんだ1954年2月5日にショーを開催します。
「ニュー・ルック」で一世を風びしたディオールをはじめジバンシー、バレンシアガなど新しいデザイナーたちの登場により盛り上がっていた当時のファッションの世界。
シャネルのコレクションは、フランスでは“時代遅れ”と酷評を受けますが、アメリカの週刊誌『ライフ』は翌月の3月1日号でシャネル再来を、その素晴らしさとともに大々的に掲載します。
フランスでは、時間差で週刊誌『エル』1958年11月号への掲載により復帰が後押しされ、その後もシャネルの快進撃は続きます。

※次々と成功を収めてきたシャネルですが、相次いで家族との死別を経験します。1913年に姉ジュリアが病死、1919年には妹アントワネットがスペイン風邪により亡くなりました。

2-5.1971年ホテル・リッツ

1971年1月10日日曜日、ヴァンドーム広場にあるホテル、リッツにてシャネルは亡くなりました。(享年87歳)
※シャネルは1934年よりリッツのスイート・ルームで暮らしました。パリのカンボン通りのブティックから徒歩約5分という立地のホテルは、日夜仕事に猛烈に打ち込むシャネルにとって絶好の住まいでした。第二次世界大戦勃発と同時期の1940年には、カンボン通り側の比較的地味な部屋に引っ越します。

前日は午後10時まで働き、1月26日より始まるパリ・コレクション準備の繁忙期のさなかでした。
死因は諸説あり明らかにはなっていません。
しかし、不眠症のためにモルヒネ注射をしていたことや、繁忙期は食事と睡眠をほとんどとらずに仕事に打ち込んでいたことは、健康を害していた一因として挙げられます。

シャネルが亡くなったときのクローゼットには、幾度となく修理をして愛用し続けたシャネルスーツ2着だけが残っていたそうです。
※2着のスーツは、白の生地、ベージュの生地それぞれにネイビーの縁取りを施したもの。

シャネルの葬儀の様子/『シャネル20世紀のスタイル』より出典

1月13日、マドレーヌ寺院にて葬儀が行われ、他ブランドのデザイナーやモデル、パリ中の有名人、そしてカンボン通りのシャネルブティックの従業員約250人が参列し追悼しました。
※マドレーヌ寺院は、パリ市内にあるカトリック教会。古代ギリシアの神殿を模した外観をもち、内部に数々の美術品が飾られています。かのショパンの葬儀がとり行われたのも、マドレーヌ寺院です。

埋葬は、スイスのローザンヌ中心地にほど近いボア・ドゥ・ヴォー墓地になされました。
※ローザンヌは、シャネルがかつて亡命生活を送っていた地。

1月26日には、予定通りコレクションが行われ大成功を納めます。

2-6.ココ・シャネルの恋愛事情

ココ・シャネルをひもとく上で、関わってきた異性の存在を知ることは欠かせません。
歴代の愛人たちを挙げてみました。
彼らの画像とともにご覧ください!

【エチエンヌ・バルサン】

(1880年-1953年)/Wikipediaより

フランスのブルジョア階級の出身。
ムーランのカフェで歌手の道を目指す中で出会います。その後ヴィシーに移る際や、最初の帽子店開業の資金提供をした愛人であり、協力者。

【アーサー・カペル】

(1881年-1919年12月21日)/(右:シャネル/左:アーサーカぺル)/『シャネル ザ・ファッション』より出典

シャネルが最も愛した男として語られる、イギリス出身の美男。ポロの名手で飛び抜けて教養がありました。
1909年に前愛人バルサンも参加した狩猟会にて、シャネル(当時26歳)は一目惚れします。後にシャネルは、「父であり、兄であり、家族全員の役を全て受け入れてくれた」と話していたそうです。30歳ですでに自分の財産をつくり上げていたことや仕事への熱意が二人の共通点。愛称は、ボーイ・カペル。ドーヴィル、ビアリッツの出店も支援しました。(シャネルは後に資金を返済します)カペルから多くの影響を受けたシャネルは、イギリス仕込みの仕様をブレザーなどのデザインに反映させます。

カペルは、社会的地位のために家柄身分の高い女性と結婚しますが、その後もシャネルとの関係は続きます。しかし1919年、カペルは車を運転中に、交通事故に遭い亡くなります(シャネルは当時36歳)。

【ディミトリー・パヴロヴィチ(=ディミトリ大公)】

(1891年9月18日-1941年3月5日)/『ココ・シャネルの秘密』より出典

ロシア人貴族で、皇帝ニコライ二世の従弟。シャネルより8歳年下。
不遇な家庭環境のもとで育ちます。ロシアからパリに亡命してきたディミトリ大公をシャネルが支援します。二人は、1920年から約一年間交際しました(シャネル37歳頃)。また、シャネルは彼の服装を参考に、ロシア調の刺しゅうや、ロシア風の毛皮の取り入れ方をデザインに落とし込みます。

【ウエストミンスター公】

(1878年-?年)/『シャネル20世紀のスタイル』より出典

シャネルより4歳年上の、イギリスの名門貴族出身。
ウエストミンスター公は、二度目の離婚をしたばかりの1923年よりシャネルにありとあらゆる贈り物をするなど、猛アタックします。1924年から1930年まで交際します(シャネル41歳頃)。競馬、ヨット愛好家。
週末のパーティーを楽しみ、シャネルも会に参加する中でチャーチル夫妻とも親交をもつようになります。1930年には、他の女性と結婚します。

【ピエール・ルヴェルディ】

(1889年9月3日-1960年6月17日)/『シャネル20世紀のスタイル』より出典

シャネルより6歳年下のフランス出身の詩人。文芸誌を創刊。
シャネルとの出会いは1921年ですが、当時彼には妻がいました。1926年に妻とともにパリを離れますが、1931年には南仏にあるシャネルの別荘に長期滞在をしています(シャネル48歳頃)。

【ポール・イリバルヌガレ】

(1883年-1935年)/『シャネル20世紀のスタイル』より出典

シャネルと同い年の画家。フランス出身のバスク人。通称イリブ。
1932年に発表するダイヤモンド・ジュエリー・コレクションのきっかけをつくります。シャネルはイリブとの結婚を考えていたようです。しかし1935年、シャネルの別荘にてテニスをしている最中に急死してしまいます(シャネル52歳頃)。

【ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラージ】

(1896年-?年)

シャネルより13歳年下のドイツ人将校。
母親はイギリス人であったため、英仏語が堪能でした。1933年から1934年までは、パリにあるドイツ大使館で報道部門の仕事を担当していました。
開戦の際、スイスに移住しますが、ドイツによりパリが占領されると再びパリにやってきます。1940年よりシャネルと交際します(シャネル57歳頃)。スイス亡命期にはシャネルとともに暮らします。後にシャネルに結婚を申し込みますが、断られます。
長身の美男子で女性を魅了。スパイの疑い。1927年以前に離婚経験あり。

【ヴァルター・シェレンベルク】

(1910年1月16日-1952年3月31日))/Wikipediaより

ナチスの諜報機関局長。 シャネルより26歳年下。

 

恋多き女シャネル。
彼女が惹かれる異性の共通点は、皆シャネルに何らかの影響を及ぼしていることです。
そして、愛するパートナーとの死別の経験。
特にアーサー・カぺルの事故死は、シャネルについて研究している中で、当記事の筆者として個人的に疑問が残りました。
果たして本当に、交通事故なのでしょうか。
事故は、パリからカンヌへと向かう途中の出来事でした。そして当日は、12月24日のクリスマス・イヴという説がありますが、本当にクリスマス・イヴに亡くなったとしたら、それは偶然とは思えないのです。
当時のカぺルの妻は、二度目の妊娠をしていたそうです。
事故の知らせを聞いたシャネルは現地に急行しますが、18時間かけて向かった先では納棺まで終わっており、対面できないままお別れすることとなりました。
その後の人生で、悲しみに打ちひしがれながらもシャネルは恋愛をしますが、時々でカぺルを想う発言をしていることからも、心に深い傷を負ったことがうかがえます。

3.ココシャネルが世に生み出したもの

3-1.ジャージー素材―コルセットから解放された女性たち

1916年、最初のシャネル・オートクチュール・コレクションを発表。
シャネルは、それまで女性たちを締め付けてきたコルセットを取っ払い、着心地に優れたジャージー素材のドレスを作りました。
※ジャージーとは、ニットの編み方の一つで、伸縮性が高く動きやすい。

 

Wikipediaより

※14世紀後半に登場したコルセットは、女性の美しいボディラインとされていたS字カーブをつくる補正・矯正下着です。胸下から腰までを覆うことでウエストの細さを強調し、バストを支えヒップの豊かさを引き立てるもの。

美しさの反面、そのつけ心地は酷なもので、あまりの窮屈さに気絶してしまう人もいたようです。

シャネルがジャージーに着目した訳は、大手生地メーカーのロディエ社にあります。

1916年に同社が大量のジャージー生地を仕入れたにもかかわらず、当初生産を予定していた(男性用)下着には適さないものでした。
その情報をキャッチしたシャネルはロディエ社に交渉し、余分な在庫を抱えたくない理由から一度は断られますが、最終的にはオーダーをさせてもらえることになります。

同年、アメリカの雑誌『ハーパーズ・バザー』11月号にジャージー素材のシャネルのドレスが紹介されます。
見出しは、“チャーミング・シュミーズ・ドレス”。
当時ビアリッツの店舗で働いていた妹のアントワネットの顧客用に仕立てられたドレスです。
ランバンをはじめとする当時の一流デザイナーとともに特集として掲載されました。従来の慣習を打ち破ることの少なかった当時には、まさに発明であったといえるでしょう。
これを皮切りに世界的に話題になり、新素材として世に浸透していきます。

1917年には、同誌は「シャネルを一着も持っていない女性は、取り返しがつかないほど流行遅れである」ともうたっています。

同年、シャネルは髪をショートヘアにして、それもまた流行します。

ロングヘアーの頃のシャネル/『Le véritable séjour de Coco Chanel à Royallieu(1905-1909)』より出典

ショートヘアのシャネル(1920年)/Wikipediaより

3-2.香水No.5

Wikipediaより

女性たちが、人からプレゼントされた香水をつける当時の慣習に対し、“自分で選ぶべき”と常々語っていたシャネル。

シャネルによる初めての香水は、「シャネル No.5」。
1921年のことです。

その製造のきっかけは、当時交際していたロシア人貴族のディミトリ大公に紹介された、フランス人調香師、その名もエルネスト・ボー。

ディミトリの後押しも相まって、皇室専属の調香師をしていたエルネスト・ボーとシャネルによる新たな開発がなされました。

シャネルが依頼したテーマは、“女性の香りのする香水”。
何十もの試作品の中から、シャネルが選んだ一つは、サンプルNo.5。
“No.5”はそのまま香水のネーミングに活かされました。

香りは、ジャスミンやバラ、アルデヒド、イランイランやオレンジなど約80種類を調合。またそれまで使われてこなかった化学合成品も組み合わされ、唯一無二の香りとして完成します。

そして、それまで世に出ていた香水瓶はどれもデコラティブであったのに対し、“No.5”はまるでサンプル容器。
パッケージもそぎ落とされたシンプルさ。

ネーミング、香り、容器全てが革新的でした。たちまち世界的に大ヒットします。

後に、かのマリリン・モンローが、「寝るときはシャネルのNo.5だけまとう」という名言まで残すなど、世界中の女性の心をつかみました。

その後も香水事業は繁盛し、1924年には香水と化粧品を扱う「パルファン・シャネル」を新たに会社として設立します。

今でも香水といえば名前が挙がる“No.5”。
その他“No.19”、“ココ”、“アリュール”などシャネルが発表する香水はヒット商品として君臨しています。

3-3.コスチュームジュエリー

高価な宝石が、おしゃれさと必ずしもイコールではないというのがシャネルの信条でした。
1924年より、工房を設けビジュウ・ファンテジーを製造開始します。
※ビジュウ・ファンテジーとは、貴金属ではない素材を用いたアクセサリー(コスチュームジュエリー)のこと。

当時、宝石は地位の象徴として身につけられるものでした。
偽物自体は存在していましたが、それぞれが所有している本物の宝石を模倣して造らせたものを身につけ、大切な席でのみ本物をつけるのが慣習でした。
今や、コスチュームジュエリーは女性の装飾品の一つとして身近なアイテムですが、偽物(フェイク)を本物より美しいものとしてまとうことは、当時は斬新だったでしょう。

4年ほど前(1920年頃)に恋仲であったディミトリ大公との交際のなかでヒントを得たのがきっかけです。
ディミトリ大公や他の男性たちからプレゼントされた宝石を解体し、新たな解釈でのデザインに活かしていきました。

3-4.ブラック

1926年10月号の『ヴォーグ』にて、シャネルの“小さな黒い服”がとりあげられます。
※“小さな黒い服”は、“プティット・ローブ・ノワール”、“リトル・ブラック・ドレス”と同義。
それまで喪服に用いる色とされていた“黒” 単色のワンピースを発表したのです。
“黒”を洋服に使うこと自体、当時では考えられないことであり、まさに革命でした。
さらにシャネルが企てたのは、誰にでも似合う、誰にでも着られるデザイン。計算し尽くしたシルエットは着る人の魅力を引き出してくれる魔法の一着。
そして、シンプルさを際立て華やかさもプラスするべく、前項のコスチュームジュエリーのような、イミテーションのパールアクセサリーを合わせるスタイルを提案しました。

3-5.シャネルスーツ

 

シャネルスーツの特徴を、二つの軸で説明します。
A)デザイン
最初のツイードスーツは、1928年に発表されました。
※ツイードは、スコットランド産の毛織物の一種。さまざまな色に染めた糸を織り込み、表情のある生地となります。

シャネルは、当時交際していたイギリス出身のウエストミンスター公の洋服を借りて身につけてみたりしていました。そういったなかで影響を受け、紳士服のものと考えられていたツイード生地を女性用のスーツに取り入れます。
ツイードは男性だけのものではないし、女性だけがコルセットに苦しむ必要もない、女性は窮屈さに耐えずに自立するべき、という信条が反映されたのが、シャネルスーツです。

また、徹底的にエレガンスと機能にこだわったシャネル。
スーツのジャケットは、シルクの裏地、裏地の裾には細いチェーンが縫い付けられ、ほどよいフィット感と動きやすさが出るよう考案されました。
そして、“ポケットは手を入れるためにあるもの”と考えるシャネルは、手を入れやすい場所にポケットを配置してデザインします。

「常に除去すること。つけたしは絶対にいけない。ボタン穴のないボタンなんて意味はない。表が大切な以上に、裏が大切なのよ。本当のぜいたくは、裏にあるのだから」
(シャネルの発言)

B)ツイード生地
1928年から取り入れているツイードですが、シャネルは後年より良いビジネスパートナーに出会います。
1954年のコレクションにて復帰してすぐ、パリ大学法学部のマリア・ケントという学生が、自分で織った布地を手にシャネルの店を訪ねます。
シャネルの目にとまり、またシャネルは大変気に入り、指定した色調でスーツ用の布地とブレードを試作させました。
花を地面に巻き散らし、同じ色味をツイードで表現するよう命じるといった、シャネルに出された課題を見事にクリアし、華やかで目にも楽しい作品を次々と作り上げます。
シャネルと相性も良く、センスを買われたマリア・ケントは、その後シャネル店公認の職人となります。
彼女の作り出すツイードは、今も変わらずハイクオリティを保ち続けるブランド“CHANEL”の基盤を築いたといえるでしょう。

3-6.CCマーク

シャネルのロゴとしておなじみの、CCマーク。
マーク誕生の由来は、諸説ありますのでどちらも紹介します。

A)偶然説
“C”と描かれた二枚の薄紙を手にしているとき、偶然片方の紙が裏返り、何気なくその二枚を重ねた瞬間に、CCマークが誕生します。

B)古城の伝統マーク説
フランスのニースにあるシャトー・ド・クレマという古城を訪れた際、すでに城の伝統として用いられていたマークを目にしたシャネルがこのマークを気に入ります。
そして城に許可を得て自身のブランドロゴとして使用させてもらうこととなります。

映画で紹介されたりもして、A説をご存じの方が多いかと思いますが、真相は明らかになっていません。
しかし、それまで作品に自分の名前を入れるのは画家が主で、ファッションデザイナーが自らの作品にロゴを入れることはなかったため、どちらの説でもシャネルの革命の一つといえるでしょう。
その後、ロゴは世に浸透していきます。

3-7.ショルダーバッグ―チェーンと革ひも

1929年、女性用のかばんはハンドバッグしかなく、片手がふさがってしまうことに不便さを感じていたシャネルは、肩にかけられるバッグを考案します。
世の移り変わりにより女性の外出や持ち物が変化している中で、バッグに求められるものも変わってきました。
それはまさしく、実用性でした。
しなやかに肩からかけるストラップには、チェーンを。チェーンだけでは肩から滑り落ちてしまうため、間に革ひもを通して強度を。
シャネルがショルダーバッグを生み出したルーツは、兵士が戦時中使っていた“雑のう”(雑多なものを入れる、肩掛けの布袋)です。

1955年2月より、本格的なバッグの生産がスタートします。
このとき発表されたショルダーバッグは、日にちをネーミングに活かし“2.55”と名付けられ、今でも人気の定番モデルです。

3-8.バイカラーパンプス

後に生産されたベージュの配色のバイカラーパンプス

1957年には、バックストラップのバイカラーパンプスを考案します。こちらもシャネルの代名詞的な名品です。
その特徴である色の組み合わせには、意味があります。
少しでも足が長く見えるように、肌に溶け込むベージュを基調に。足を小さく見せるために、つま先には黒を。
つま先の黒は、水兵が作業をする際につま先の汚れを防ぐためゴムを貼っていたことに発想を得ています。

4.参考文献

秦 早穂子(1990)『シャネル 20世紀のスタイル』
山口昌子(2016)『ココ・シャネルの真実』講談社
髙野てるみ(2012)『ココ・シャネル 女を磨く言葉』PHP研究所
髙野てるみ(2015)『ココ・シャネル 凛として生きる言葉』PHP研究所
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/

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Asami Obata

ファッションを仕事とするにあたり、集大成の舞台はここだ!と思い、2015年7月末Blue Roseに参加。お預かりさせて頂く品々にときめく毎日です。現在はもっぱら、シャネルの研究に入魂中。趣味はDVD鑑賞です。好きな作品は、うっとりする純愛映画『ビフォア・サンライズ』です。

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